「どうしてお菓子を作るようになったの?」
と聞かれることがよくあります。
私には3つ上の姉がいますが、
最初は姉がお菓子を作っていました。
昔あった、少女漫画が混じったメルヘンチックなお菓子作りの本に憧れて、
ワクワクしたりうっとりしながら、飽きずに眺めていました。
実家の台所(そう、あれはキッチンではなく台所)
の収納の1箇所を母がお菓子作り用に空けてくれて、
そこにピンク色のプラスチックのアナログのはかりや、
母からのお下がりのボール、黄色いケースに入った温度計、
4面の赤いプラスチックのトランプの抜き型など
いろんなものが詰まっていました。
姉が高校受験になってお菓子を作るのをやめ
その役割は私が引き継ぎました。
それまで、共働きだった両親の代わりに
姉が、ドーナツを揚げたり、
表面にパン粉をまぶしたおにぎりをバターで焼いてくれたり、
スイミングに通う わたしや弟のために
軽食をまめに作ってくれたことをよく覚えています。
(今も姉は料理上手で、手間暇かけた心のこもった味には敵いません。)
初めは、少女漫画交じりの本を見ながらお菓子作りを始め、
ゼリーを作ったり、
小さなオーブンでクッキーやバターケーキを焼きました。
お菓子の本はいくら見ても飽きず
作ってみたいものばかりでワクワクしました。
これが残っている中で一番古い本。昭和54年発行。
(本体価格のみで税金もなかった頃です。)
もう黄色く変色していますが、
この本を見て、フォークで跡をつけたハンガリー風クッキー、フルーツケーキやババロアなど、色々なものを作りました。
人にプレゼントするようになり
(子どもが作るものなのでそれほど美味しくはなかったと思うのですが)
みんなが喜んでくれて、
そんな喜びがわたしにお菓子を作り続けさせてくれました。
高校生の時に、アレンジして焼いたくるみのクッキーが
とてもおいしいレシピで、結果的に今でも定番として残る
クッキーとなりました。
お菓子を作らなくなった姉が
このクッキーをこよなく愛してくれて、褒められて頼まれて、
よく姉のために焼いていました。
姉が大学で京都に進み、
母が仕送りの段ボールを送るときは
当時高校生の私もクッキーをたくさん焼いて送りました。
長いお休みには、
市内のパン屋さんの専務さんに頼まれて
姉と一緒にアルバイトもしました。
お礼に、材料や包材等をよく分けていただき、わくわくしました。
そんなことも、わたしのお菓子作りを後押ししてくれたと思います。
クッキーを仕事にしてみようと考えた時、
相談窓口や創業した先輩に相談に行くと
ありふれているし特徴がないから無理だとか、
奇抜で目立つ商品開発をしたほうがいい、
と賛成してもらえないことが多く、メゲました。
かといって突然奇抜なものを無理して作りたくもなく、
昔から家族や周囲の人に愛されて馴染んでいる焼き菓子しか
焼きたくないし、とても葛藤しました。
そんな時、
姉がいつもずっと、励まし続けてくれました。
「よっぴーのクッキーは 本当においしいから!」
(※お恥ずかしながら、幼少の頃より姉からはこう呼ばれています。σ(^_^;)
ここ、あなたとか別の言葉で置き換えると、なんかどうしても違っちゃうんですよね。)
市販品でこういうものは売ってないし、
余分なものが入っていないから贅沢で温かみがあって
本当においしい、
何を食べても比べるとこれ以上美味しいクッキーはない、
いつもいつもそんな風に言ってくれました。
友人の集まりや、人に何か贈るときなど、
母や姉は積極的にショップカードと一緒に配って
宣伝してくれました。
そしてその反応を、まるで自分のことのように喜んで
速報で逐一知らせてくれました。
不特定多数の方に食べてもらうのは初めての経験だったので
こわくて不安で仕方がありませんでしたが、
予想以上にすこぶる上々な反応ばかりでした。
そうした言葉が
だんだんとわたしを安心させ、自信と勇気をくれました。
母や姉は
仕事になる前からずっと私の作るものを食べていたので、
今でも良き試食役です。
(母はビスコッティ派、姉はクッキー派です。)
今ではおかげさまでたくさんのお客さまに支えられながらも、
原点は、もう30年以上も
無類のクッキー好きの姉が
わたしのクッキーを本当に本当に大好きでいてくれたから、
その存在が私を支え続けてくれたと思っています。
お仕事になったら、体力にも限界があって
なかなか今までみたいに姉のために焼けなくなってしまって、
ちょっぴり残念で心苦しく思っています。
たまにはよっぴーのクッキー初代ファンクラブ会長、
今は名誉顧問の姉に、
クッキーをたっぷりゆっくり焼いてあげたいな、
と思っています。