古本屋で思わぬ掘り出し物に遭遇し、久しぶりに心が躍りました。
大学の時にお世話になった金子郁容教授の著作「空飛ぶフランスパン」。中を見てさらに驚き。
なんと教授はベイカーだったことを初めて知りました。表紙のフランスパンも自らの手によるものだそうです。
難しい理論に混じって、「洋梨のタルト」「トーフのキーッシュ」などのレシピも掲載されています。
「パン作りとコミュニケーション」という章があり、ほんの導入ですが長年レシピに関わってきた身としては深く実感できる思いで読みました。
「レシピはアルゴリズムに似ているーそれは目的とされる状態に到達するために実行すべきステップの指示の集まりだからである。(もちろん数学的に厳密な意味ではそうではないが) ーところが指示通りしたはずなのにレシピにない状況が発生してしまうー目的とされる結果を生むために必要な手順と言うものは極めて複雑で、厳密なステップを指示しようとする膨大な量になってしまうーそのため各自がやってみる中で何かを掴みながらどこかに到達するというプロセスがあるだけではないだろうかーーさらに目的とされる状態は1つではない」
「つまり1つの目的地とそれに至る1つの経路を知ることが重要なのではなく、本質的な不確実性の中でそれぞれがその時々に手に入れられる手がかりを求め、それを得られたと思うときにはそれを頼りにして、さしあたって自分をそれに預け、思い込み、思い返し、信じ、疑い、納得し、思い知り、発見し、崩れながらとにかく進む中で自らの経路を作り出すことが重要だという点である」
今の私にとって、あぁレシピはコミュニケーションだな、と腑に落ち、しばらくそれについて考えを巡らせていました。
本質的に不確実なプロセスに立ち向かって行く時、勇気を抱かせてくれるものがレシピ(コミュニケーション)であり、
そしてレシピと作る人との間のインタラクションがどう展開するかがとても大切だなと。
それは決して一方通行ではなくて、こちら側がどのくらい「注ぎ込むか」に大きく影響しています。
自らを注ぎ込むことなしに、そこから湧き出てくる水を受け取ることができない、という点においても、レシピはコミュニケーションと似ています。
思い入れがあり、大切にしてきたレシピは書き込みやバターのシミがあり、ふやけたり滲んだりしています。そして自分に馴染んで心地良いものに育っています。
反対に、特に思い入れのないレシピ(コミュニケーション)は注いだ労力に比例したものです。人のレシピであれば、人のもののままです。
なるほど。レシピはコミュニケーションによく似ていますね。
家族、友人、師、、、大切な相手とは、インタラクティブを怠らず、諦めず、育てていくものです。時に面倒ですが、放り出したらそこでおしまい。書き込みやシミも、時が経てば大切な財産です。
そうした手間暇かけた注ぎ込みがないものから、ただ受け取る事だけはできません。